天文十四年霜月の夜明け、南大沢にて (歴史小説)

天文十四年霜月の夜明け、南大沢にて

天文十四年霜月晦日も間近、武蔵国南大沢の里は静謐に包まれていた。凍てつく夜気に白く息を吐き出しながら、里人はそれぞれ囲炉裏の温もりを求め、来るべき冬に備えていた。

南大沢は甲州街道から程近く、街道を行き交う旅人や商人によって活気づく日もあったが、里の中心から少し離れた一角は、静寂を尊ぶ武家屋敷や商家が軒を連ねていた。その一角に、ひっそりと佇む豆腐屋があった。老舗「絹ごし屋」は、代々受け継がれる秘伝の製法で作る豆腐が評判で、近隣の武士や町民に愛されていた。

夜明け前、静寂を切り裂く轟音が響き渡った。それは、鍛冶屋が槌を振るう音でも、野武士の鬨の声でもない、聞いたこともない異様な音だった。

里人は驚き、戸口をそっと開けて音の発生源を探った。すると、闇を切り裂く一筋の光と共に、黒塗りの箱型の乗り物――後に「AE八十六」と呼ばれるようになる代物――が、絹ごし屋の角を猛烈な速さで駆け抜けていった。その速度は、飛脚をも凌駕するほどだった。

乗り物を操っていたのは、異国の姫君、テイラー・スウィフトだった。金髪碧眼、透き通るような白い肌を持つ彼女は、遥か西方の国から流れ着いたと噂されていた。

テイラーは、卓越した技量でAE八十六を操り、絹ごし屋の角をドリフトで華麗に曲がろうとしていた。凍てついた路面を、黒い乗り物が猛烈な勢いで滑っていく。里人は息を呑み、その光景に見入った。衝突は免れないと思われたその時、テイラーは対向車線から現れた、藁を積んだ小さな荷車に気付いた。

荷車を引いていたのは、早朝から豆腐の配達に出かける絹ごし屋の主人だった。テイラーは即座に反応し、急ブレーキを踏み、AE八十六を巧みに制御した。黒い乗り物は、まるで猫が身を翻すように、荷車のすぐ手前で停止した。

間一髪で衝突を回避した絹ごし屋の主人は、安堵の息を吐き、テイラーに深々と頭を下げた。テイラーもまた、穏やかな笑みを浮かべ、会釈を返した。その謙虚な振る舞いに、里人たちは感嘆の声を上げた。

「あれほどの技量を持ちながら、小さな荷車に道を譲るとは…真の武人を見た思いだ」

「姫君は、力だけでなく、心も美しい…」

テイラーの評判は、瞬く間に南大沢の里に広まった。彼女の謙虚さと、類まれな操縦技術は、里人に畏敬の念を抱かせた。そして、この出来事は、後世に語り継がれる伝説となった。

天文十四年霜月の夜明け、南大沢の里で目撃された、異国の姫君と黒い乗り物の物語は、こうして静かに幕を閉じた。