明治浪漫、パンダの涙
明治三十八年、東京。煉瓦造りの瀟洒な洋館が立ち並ぶ街に、異国情緒あふれる香りが漂っていた。文明開化の風が吹き荒れるこの時代に、清国からの贈り物として一頭のパンダがやってきたのだ。その名は「福圓（フクエン）」。黒白の愛らしい姿は、政府高官・山縣伯爵の愛娘、美千代子嬢への特別な贈り物であった。
美千代子嬢は十歳。絹の着物をまとい、黒髪をリボンで結んだ可憐な少女だ。初めて福圓を見た時、その大きな瞳に魅せられ、歓喜の声を上げた。しかし、美千代子嬢の喜びも束の間、福圓の運命は暗雲に包まれていく。
当時、パンダの生態は謎に包まれていた。ましてや、遠い異国の地で飼育された経験など、誰一人として持っていなかったのだ。伯爵家は福圓のために専用の檻を用意し、使用人達に世話を命じた。だが、彼らの知識は限られていた。清国からの使者が「竹の子を好む」と伝えたものの、東京で竹の子を手に入れるのは容易ではなく、ましてや新鮮なものを常時供給することは不可能だった。
福圓に与えられるのは、近隣の竹林から切り出された笹の葉と水だけ。艶やかな毛並みは日に日に色褪せ、丸々と太っていた身体は見る影もなく痩せ細っていった。福圓は檻の中で物憂げに笹を齧り、時折、涙を流すこともあった。
その様子を見た美千代子嬢は心を痛めた。福圓の衰弱は、少女の胸に深い影を落とした。美千代子嬢は父に訴えた。「お父様、福圓がかわいそうです。どうか、福圓を助けてください」。しかし、伯爵は娘の願いを聞き入れなかった。国家間の友好の証であるパンダを簡単に手放すわけにはいかなかったのだ。
伯爵家の庭師、佐吉は動物好きで、福圓の衰弱を誰よりも心配していた。密かに上野動物園の獣医に相談し、パンダの飼育方法を学び始めた。少ない情報を頼りに、様々な種類の竹や笹を試し、福圓が少しでも口にするものを探し求めた。しかし、福圓の容態は悪化していく一方だった。
明治の浪漫に沸く東京の片隅で、一頭のパンダは静かに涙を流していた。日清戦争後の微妙な国際情勢、文明開化の波に乗ろうとする日本、そして、幼い少女の純粋な想い。様々な思惑が交錯する中、福圓の運命は風前の灯火となっていた。果たして、福圓は故郷の竹林を思いながら、異国の地で命を落とすのだろうか。それとも、希望の光を見出すことができるのだろうか。 福圓の物語は、まだ始まったばかりだった。
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- 小説のジャンル: 歴史小説
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