茜色の約束

南大沢の丘の上、廃墟と化した洋館。その朽ち果てた窓枠から差し込む朝焼けは、いつもどこか物悲しい。僕はそこで、彼女に出会った。

名前は、葵。東洋人の顔立ちをした、静かで慎ましい少女。イギリス人の支配人、ハワードから酷い仕打ちを受けている召使いだった。彼女は、洋館の陰影に隠れるように暮らし、その存在は、まるでそこに咲くひっそりとした野の花のようだった。

初めて言葉を交わしたのは、早朝の霧が立ち込める中だった。廃墟となった応接室、剥がれ落ちた壁紙と埃っぽい空気の中、僕らはひそかに会話を始めた。彼女の憂鬱な瞳には、抑えきれない悲しみが宿っていた。ハワードの横暴、そしてこの閉ざされた世界への絶望が、彼女の心を蝕んでいたのだ。

しかし、彼女の傍らにいると、僕は不思議な安らぎを感じた。彼女の静かな話し方、控えめな仕草、そして、時折見せる儚い笑顔に、僕は次第に惹かれていった。それは、禁断の蜜のような、甘く切ない恋だった。

僕らは、朝焼けを背に、ひそかに会うようになった。廃墟の庭で、朽ちたベンチに座り、互いの想いを語り合った。いつかこの地を離れ、自由な世界で二人で暮らす。そんな夢を、何度も何度も語り合った。それは、この暗い洋館の中で咲いた、唯一の希望の花だった。

葵は、イギリスの小説を愛読していた。特に、ブロンテ姉妹の作品に心を奪われていると話してくれた。彼女の繊細な感性と知的な会話は、僕を魅了した。彼女は、僕にとって、この閉ざされた世界に差し込む唯一の光だった。

しかし、幸せな時間は長くは続かなかった。ある朝、葵の姿は洋館から消えていた。残されていたのは、彼女がこっそり僕のポケットに忍ばせていた、一枚の可憐な野の花、そして、胸に突き刺さるような、激しい恋しさだけだった。

野の花は、茜色に染まった夕焼けの中で、ゆっくりと枯れていった。葵の消息は分からず、僕はただ、彼女の残した花と、あの甘く切ない記憶だけを胸に抱えて、南大沢の丘の上で、一人、風の中で佇むのだった。

それから数年後、僕はロンドンで、小さな古書店で働くようになった。ある日、一冊の本の栞として挟まれていた、一枚の押し花を見つけた。それは、あの日葵がくれた野の花だった。その隣には、小さなメモが添えられていた。

「いつか、あなたと自由な世界で。」

葵の文字だった。

後日談 (optional)

もしかしたら、葵はハワードの目を逃れて、自由への道を歩み始めたのかもしれない。あるいは、別の苦難に遭遇したのかもしれない。 真実を知る術はない。ただ、彼女の残した野の花と、胸に刻まれた茜色の約束は、僕の青春の、永遠の記憶として残り続ける。 あの廃墟の洋館は、今も南大沢の丘の上に立っているのだろうか。そして、朝焼けは、今日も静かに、その朽ち果てた窓枠から差し込んでいるのだろうか。

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  • 小説のジャンル: 青春小説
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