運河のセレナ - ある南大沢の住人の回顧録
1988年、東京都八王子市、南大沢
喧騒が耳にまとわりつく。駅前の雑踏、走り回る子供たちの声、そして、どこまでも続く開発の轟音。南大沢は、夢と希望に満ちたニュータウンと呼ばれていた。しかし、私、高橋健太にとっては、それは息苦しいほどの均質さだった。毎日同じ時間に電車に乗り、同じ顔ぶれの同僚と働き、同じ時間に帰宅する。まるで工場で大量生産される部品の一つになったような気分だった。
そんな閉塞感を打ち破るように、私は週末になると奇妙な行動に出るようになった。インターネットも普及していない時代、海外旅行の計画は、図書館で古いガイドブックを読み漁ることから始まった。そして、私が心を奪われたのは、北イタリア、ミラノのナヴィリオ地区だった。運河沿いに軒を連ねるバールやレストランの写真。夕暮れ時に水面を茜色に染める光景。写真の中で、時間が止まっているように感じられた。
そして、私はついに決意した。貯金をはたき、有給休暇をすべて使い、ミラノへと旅立ったのだ。
1988年、ミラノ、ナヴィリオ・グランデ
ミラノのマルペンサ空港に降り立った時、日本の湿気を含んだ重たい空気とは全く違う、乾いた空気が私を包み込んだ。タクシーに乗り込み、ナヴィリオ地区を目指す。窓の外を流れる景色は、ガイドブックで見たものとは少し違っていた。それでも、運河が見えた瞬間、胸が高鳴るのを抑えられなかった。
ホテルにチェックイン後、私はすぐにナヴィリオ・グランデへと向かった。夕暮れ時、水面は期待通り茜色に染まり、石畳の道にはバールの明かりが灯り始めていた。人々は思い思いにグラスを傾け、楽しげに会話を交わしている。私は、まるでタイムスリップしたかのような錯覚に陥った。
ふらりと立ち寄った小さなバールで、私は一杯のアペロールスプリッツを注文した。運河を眺めながら、オレンジ色の液体を口に含む。微かな苦味と甘みが、疲れた体を癒していく。
その時だった。
運河の水面が、不自然に波打ったのだ。目を凝らして見ると、水の中から何かが現れようとしている。最初は、ゴミか何かかと思った。しかし、次の瞬間、私は自分の目を疑った。
水の中から現れたのは、美しい女性だった。否、正確には、女性の上半身と、魚の尾を持つ人魚だった。
彼女の尾は、夕日に照らされて虹色に輝いていた。長い黒髪が水に濡れ、彼女の顔にかかっている。その顔を、私は見ることができなかった。しかし、その尾が、確かに魚のものであることを、私ははっきりと認識した。
私は息を呑んだ。信じられない光景に、言葉を失ったのだ。
人魚は、運河の壁に手をかけ、ゆっくりと身を起こした。そして、私に向かって、ニヤリと笑った。
「やあ、日本人。ようこそ、私のナヴィリオへ。」
彼女の声は、鈴の音のように美しかった。しかし、その言葉には、どこか挑発的な響きがあった。
「あ…あなたは…」
ようやく絞り出した私の言葉に、彼女は答えた。
「私はセレナ。アドレナリン中毒の人魚さ。退屈な毎日を、ちょっとだけ刺激的にしてあげるよ。」
セレナはそう言うと、水の中に身を沈めた。そして、次の瞬間、彼女は運河を猛スピードで泳ぎ始めたのだ。
私は、呆然と立ち尽くしていた。人魚。本当に、人魚を見たのだろうか?これは、夢ではないのか?
しかし、水面に残された波紋が、全ては現実だと告げていた。
その日から、私のミラノでの日々は、全く違うものになった。私はセレナを探し、ナヴィリオの運河を彷徨い歩いた。そして、何度も彼女と出会い、奇妙な交流を重ねていくことになるのだ。
セレナは、私の人生に、鮮烈な色を与えてくれた。彼女は、私に冒険を教え、常識を覆すことの楽しさを教えてくれた。
しかし、同時に、彼女は、私に大きな危険をもたらす存在でもあった。彼女との関わりは、私を、危険な事件へと巻き込んでいくことになるのだ。
これは、1988年、私が南大沢の閉塞感から逃れ、ミラノの裏運河で出会った、アドレナリン中毒の人魚、セレナとの物語である。そして、それは、私の人生を大きく変える、忘れられない夏の日々の記録でもあるのだ。

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- 小説のジャンル: 歴史小説
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